夏になると、ふと、下田の海を思い出すことがある。
妻と始めての旅行、いや正確には、まだ妻とは呼べないふたりだった。
そのころ、ぼくは、光がかすかに感じるだけの視力だった。ぼくは明日が見えない。 毎日が、重く澱んでいた。
「ねえ、下田にでも、いかない」
彼女のひと言で、旅行は決まったのだ。
あこがれの海を、二人だけですごしたかったのだ。
新宿駅の改札口で、雑踏の中で彼女の声を聞いた。
「お兄さんには、なんていってきた?」
「下田にいくっていっただけよ。『もしものことがあったら、どうするんだ』って、い われたわ」
「それで、なんていったの?」
ぼくは、おもわずとんがってききかえした。「えっ、なによ。黙って、返事しないでで てきたの」
「もしものこと」とは、いまのぼくには後ろめたくもあり、不吉なことを暗示している ように思えた。
密やかな開放感と、熱波に漂う、けだるさがあった。
彼女は弱視だった。ふたりで白杖を握って、下田の海で遊ぶのは、波の音をきくくら いで、味気ないと考えるかもしれない。
ぼくたちは、あまりにも現実を忘れていた。ただ、海に入りたいと簡単に思っていた 。視力をなくして始めての夏を、理解せずに無頓着だった。
砂浜に、白杖を無造作に横たえておいた。熱い砂の上をはだしで歩き、ひんやりした 海水に触れると、忘れていた童心がよみがえってきた。
「まあ、わたし、海にくるなんて何年ぶりかしら」
「もっと沖へいってみよう」
ふたりで手をとり、どんどん、海にはいっていった。
右の方から、はじけるような若者の声、水をけちらす音が、わき上がって聞こえてき た。
「わたし、泳ぎが得意じゃないの」
「よし、ぼくが手をつないであげる」
彼女は、バタバタ水しぶきをたてて、別人のようにおどけ、はしゃいでいる。
飛沫と奇声がはじけ飛んだ。しばらくは、浅瀬で潜ったり、手足をめちゃくちゃに動 かしたりしていた。
太陽が真上から照りつけている。ぼくも陽気になった。
「少し先まで泳ぐから、声を出して合図してね」
ぼくは平泳ぎで、ゆっくりと沖に進んだ。海に身体をまかせているのは、たまらなく きもちいい。波は緩やかで、気分は静寂に包まれていた。
ぼくは、ときどき、足を海底に触れ、Uターンして元に戻るのだった。それを何度か 繰り返しているうちに、大きく円を描いて戻れば、さほどに危ないことはないと思えてきた。そして、ぼくは、さらに沖に向かって、泳いでいったのだった。
しばらく進んで、足を海底に触れようとしたら、何も触れない。ぼくは、いやな感じ がした。疲れてもきた。冷たい恐怖がわき上がった。ぼくは、遠近感と方向感覚を失ってしまった。
ぼくは立ち泳ぎをして、人の声を必死で探った。あたりの音に注意した。左に大勢の ざわめく声が聞こえれば、そのまま進んでいいはずだ。海がどんよりと、身体を沈めていくような冷たさを感じた。
先に先にと泳ぐが、方向が定まらず、不安が加速度的におしよせた。
そのとき、額にガツンと音がした。恐かった。なんだか、かたい物があった。手を前 に出して探ると、壁が立ちふさがっていたのである。そのとき、防波堤だと直感した。「助かった」と心の奥から叫んだ。そして、防波堤につかまって、海岸に戻った。人の ざわめきが近づいてきた。ぼくがぐったりとして歩いていると、彼女の声がした。
「どこまでいってたの?」彼女の、のんびりした口調に、ぼくは腹が立った。
「何で声をかけてくれなかったんだ!」
「だって、どんどん進んでいくんだもん。見えなくなったのよ」
「ちゃんと大声だしてくれればよかったんだよ!もう少しで死ぬところだったよ」
「エッ? 何が?」
「だから、迷って、溺れるところだったんだよ。早くあがろう」
ぼくは、自分で自分のことが無性に恥ずかしくなってきた。防波堤の壁に一目さんで 突き進み、おろおろと震えている自分が惨めだった。それでも、怒りはおさまらず、かすれ声でいった。
「もう、あがろう」
「だめよ。おかあさんがいってたもん。長く浸かってないとだめなんだって」
「何? おかあさんが……。ウミウシじゃああるまいし……」
「なによ、ウミウシって何のことよ?」
そのとき、空想の映像がポッカリ現れた。
透き通った海面に、純白のウミウシが、乱反射した水面から見える。赤い花の形をし た尻尾が、水中で揺らめく。オレンジ色の角が、光り輝いている。
(了)